総括(方向性、ジャンル不明である理由)プラス沢木耕太郎を語れ
序論
バイトの休憩中、よく喫煙所で携帯をいじりながら過ごしていることはふつうであると思われる。
その際、スマホアプリではてなブログを見ているのだが更新頻度の高いブログはとてもよい読み物なものですから非常に有難い存在である。
ところで、大体の私の登録しているブログは雰囲気は固まっているようなものばかりである。別段、悪い意味ではない。
翻って、このブログはどう見ても定まっていない。最近は矢鱈とバイクの話ばかりを連ねているものの、一番読まれている記事はF1Hondaに関するものだったりするし、始めた当初は就活ネタでやろうと思っていたけれども今となっては書くことが思いつかないし書こうとも思っていない。ミリタリーの話も最近離れているし…
でも検索で引っかかりやすいのか、登山ネタの話とミリタリーネタの話は意外とよく読まれているものも在ったりするわけだったりするのである。泡沫ブログながら自身の書いたものが読まれているということは何となく心地よいものであることは否めない。
読者が増えたというサジェストは通知で出てくるしや簡単なアクセス解析ならスマホで確認ができるので思いがけない時にどーんと閲覧数が増えた時などはつい( ̄ー ̄)ニヤリとしてしまう。
ただ、良い気分で書いた(作った)ものがあんまり見られていないとがっかりすることもあるわけである。そんなことはブログを始める前からよくあることだが。逆に心血を注いだともいえないようなものが意外なほどによく見られていることもあるわけだ。
では、今年どんな文章を書いては見られて評価されたのだろうか。印象に残った文章について以下に論じよう。
本論
まず、最近の話である。
10月から12月は映画館によく行ったということは過去の記事で映画の話(全部アニメやけど)を3回もしていることからも明らかである。
Project Itohの映画が期待外れに終わったのでがっかりだよ、という話が一つ。これは愚痴でしかなかったけれど実はそこそこ見られていた。で次に、
実際面白かったよね、という話である。一人で勝手に興奮しながら家に帰るなり小説を書き出すという未だかつて無かった経験をも達成したのだった。なお、pixivに投稿したのはROM専なアカウントだったのでちょっとは活用したかったという欲によるものである。
また宣伝するでー
こちらについても少ないながらもブックマークをしてもらい、閲覧数も500を超えたので密かに良い心持ちである。
と、まあ前置きが長くなったところで、ここで私は思うわけだ。
何かを作ってそれを評価してもらうことというのはいいなあという月並みの感想を。
だがしかし、現実に何か小説を書いて知り合いに見せるという行為は私にとってすればとても怖いし恥ずかしいと感じている。対して、ネット上で私の個人情報が見えない状態で作品を発表することはハードルが低い。これはブログも実は同じことである。ブログをわざわざネット上で公開された状態で作るということは即ち見られたい、共感を受けたい、評価されたいというようなものがあるわけである。
よく、備忘録と表記しているものもあるが見られたくないならメモ帳に書きなぐるわけなのでやはり評価はされたいわけだ。
でも、それは当然の欲求でしょう。素人であっても小説は作れるし、論評はできるし、マンガも描けるのだ。小学生がマンガを描いているというのも発表されているとかは別にすれば全国でよくある話ではなかろうか。
そして、私は文章を書きたいのである。それはフィクションであり、ノンフィクションであり、ドキュメンタリーであり、評論であり、随筆である。つまり何でもよいのだ。それを考えるとこのブログは足掛かりなのである。世の中に知らしめたいのである、私の才能を。
さあこれで大よその方向性は見えたのではないだろうか。
結論
結局、欲に塗れたブログである。もっと見てほしい、評価してほしい。そう考えているだけの話だ。
しかし、私は自負がある。自負がある一方で、未だ文筆のスキルは未発達であるとも考えなければならない。では研鑚の場が必要である。
文章を書くことは私の生きがいだ。
そうそう、アフィやってるけど全然実入りはないぞ。
ぷらす:沢木耕太郎という作家について
いつだったかの記事でも出てきている沢木耕太郎は個人的に多大なる影響を受けた作家である。
中学1年生のときに名著『深夜特急』を読んだことが発端である。このシリーズは思春期の男子にとってすれば非常に強力な本である。劇薬である。
しかし、実のところ沢木耕太郎の他の著書は大学に入るまでは未読であった。裏を返せば、大学で深夜特急熱が再燃しだしたことによる沢木病とでもいうべきものが発病したのだ。
主にルポタージュをピックアップしていた。初めての「その他」の本は『敗れざる者たち』である。
わけあってアメリカに行くことになった時に本の1冊でも、と思い買ったのである。小説にしなかったのは私の場合、気分が乗らなければ全く小説を読めなくなる性質だからである。
結果的にこの本の各章全てが衝撃的であった。円谷幸吉の話であるとか、榎本喜八の話であるとか、カシアス内藤の話であるとか…印象に残っている話だけしか出てこないが、よくもここまで書き切ることができるものだとびっくりしたわけである。
この時点で沢木耕太郎のルポやノンフィクション、エッセイがとても魅力的な文章だと私は感じていた。
次に
ここらあたりを読んでいた。こいつらはエッセイだというのでただ単に好きか嫌いかという程度の話でよいと思う。なお、私は好きだ。
そして大学を卒業したあとに読んだのが
こいつである。
丁度、シールズだとか安保法案だとかが大流行りしていた時期に読んでいたので変に臨場感の様なものを感じることとなった。
このルポがすごいのは事件の背景を追うということ自体はいたって普通であるけれども被害者浅沼稲次郎と加害者山口二矢の二人の背景を生まれからじっくりと追い続けている点にある。
卒アル写真を見せて同級生や近所の人がどんな人だと思っていたかというような当てにならない情報ではない。取材がとても丁寧でじっくりされたのが読みながらにして感じられる。
ただし、このやり方の欠点としては時間がかかりすぎるしこの形にできるものとなるとどうしようもなく取り上げられる題材が限られてしまうのだ。瞬間的に刃を押し当てた少年と社会党書記長との体が交差するという事実、報道写真がピューリッツァー賞を獲るほどに印象的なものとなったという事実がこの稀有なルポを生んだとも言えよう。
で、最近になってまた一冊買ったのだ。
これはあまり面白いとは思えなかった。何故か。以下はほんの少しだがネタバレがあるので注意。
簡単に言えば、表紙が深夜特急と同様の体を示しているが、筆者は既に普通にベトナムを旅している。無論、中々旅のうまい人なのだろうという内容ではあるがあの深夜特急のような無茶苦茶さはなく、ただのおっさんがちょっと海外一人旅をしましたというだけの話である。
市場で値切ったり、ぼられたり、田舎で会ったばかりの人から家に招待されたりすることもなく、ホテルでファックスを送るのに金がかかるのかというエピソードも残念な話、クレーマーのようにしか見えなかったのだ。
深夜特急でも思い返せばクレーマーレベルのやり取りがあったりしたが、互いにしのぎを削るようなやり取りの中であるので気になるわけがない。
とまあ、残念なわけであったのだ。だからと言って沢木耕太郎のことが全く嫌いになったわけではないけれども。ただ、今回選んだ本は私にとっては面白いものではなかった、という話である。
因みに初めて沢木の本が面白くなかったと感じたという話でもある。
結論、沢木耕太郎はマジおすすめ。